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ワイス(? - 1432年〔『明史』、16世紀の史書『ターリーヒ・ラシーディー』の記述を根拠に、ワイスの没年をヒジュラ暦832年(1428年 - 1429年)とする説も存在する。間野英二は『明史』、『ターリーヒ・ラシーディー』、『バーブルナーマ』、『明実録』などの記述を検討し、1432年にワイスが没したと結論付けた。(間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、17-20頁)〕)は、東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)の君主(在位:1418年 - 1421年、1425年 - 1432年)。漢語資料での表記は歪思。日本語ではヴァイスとも表記される。 == 生涯 == ヒズル・ホージャの孫。シール・アリーの子。 1417年〔間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、5頁〕もしくは1418年に従兄のナクシ・ジャハーンを暗殺、当時のモグーリスタンの有力者であったのアミール(貴族)・フダーイダードの承認のもとに即位した〔間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、6頁〕。即位後にビシュバリクからイリバリクに遷都、明からは国名を「別失八裏」から「亦力把裏」に変えたと見なされた。 即位後、明に複数回朝貢した〔『明史』巻332、列伝第220、西域4、別失八裏、永楽16年条〕。1420年に従弟のシール・ムハンマドが反乱を起こすとこれを鎮圧するが、翌1421年に亡命先のティムール朝から帰国したシール・ムハンマドによって追放される〔。1425年にシール・ムハンマドが没した〔間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、25頁〕後に復位した。 ワイスは在位中、北方のモンゴル高原で勢力を拡大するオイラト族とたびたび交戦した。16世紀の史書『ターリーヒ・ラシーディー』はワイスがオイラト族と61度交戦し、一度を除いてすべて敗北に終わったことを伝える〔間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、12頁〕。1428年にオイラト族のエセン・ハーンと戦って敗れて捕虜とされ、姉妹のマフトゥム・ハニムをエセン・ハーンの息子アマーサーンジーの妻として差し出すことを条件に釈放された〔間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、14-15頁〕。 1430年前後にはトルファンに進出、現地の支配者階級を追放し、トルファンをモグーリスタン・ハン国の直接の支配下に置いた〔間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、11-12頁〕。1432年頃にティムール朝のウルグ・ベクに追放された西チャガタイ・ハン国のハーン・サートゥークがモグーリスタンに侵入する事件が起きる〔間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、19-20頁〕。ワイスはサートゥークとの戦闘中に戦死したと考えられている〔間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、19-20頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワイス (モグーリスタン)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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